galmin 近畿 20代 学生
教職のあり方について考えたときに、労働の大前提が欠如していることに気がつく。労働とは対価(賃金)をもらい、時間と労力を提供する。提供する労働の質が高ければ高いほど、見返りとなる対価は大きくないといけない。そんな大前提が教職では崩れてしまっているように思える。
教員は自分が捧げた時間の分だけ対価をもらっているだろうか。自分が持っている能力の分だけ見返りをもらっているだろうか。(もちろん法律上どうだという話をしているのではない。)時給換算数百円で請け負う土日の部活動顧問。時間外に平気で行われる指導や会議。労働時間外にどれだけ業務をこなしても自主活動とみなされる法的環境。少なくとも端から見れば、常軌を逸した労働環境に思える。
こんなふうに労働の前提を壊してしまったのは誰だろうか。文部科学省?給特法を制定した人たち?それとも保護者?私は教員自身だと思う。教員に求められる能力は決して低くない。最先端の教科の知識を身に着け、それを子供たちに還元していく仕事は尊い。だが自分の能力を安く提供することは、社会におけるその能力や労働の価値を下げてしまうことになると、気がついていない人が多いように思う。
「ロレックスの時計は高いことに価値がある」、とある評論家が述べたが、その逆もまたしかり。無償で提供されるサービスは「価値が低い」つまり「対価を支払わなくていい」と思われてしまうのだ。ネット通販で送料無料の恩恵を享受していたら、たった数百円の運送料を高いと感じてしまうのとも似ているかもしれない。本来は運送業者がしかるべき労働の対価を受け取るべきなのに。
先生方はみな人がいい。「子どものため」と身を削って奉仕する。そのことがかえって自分の労働の価値を下げてしまっているのだ。もちろん教師がもらう対価は賃金だけではないという批判はあるだろう。子供たちからもらう言葉や笑顔はかけがえのない価値がある。だがそれは所詮きれいごとだ。お金がないと先生は生きていけないし、現に数多の先生方が精神疾患に倒れている。
6月になって各地の採用試験の倍率が発表され、その低下ぶりを嘆く声をよく聞く。私も教員を諦めた学生の1人だ。私の周りには教員志望の学生も多い。優秀な彼らが教職につくことは確かに日本の教育にとっては有意義だろう。だがそれと同時に優秀な人材の必死の奉仕が(今の環境では残念ながら)自らの労働の価値を貶めることに繋がってしまっていることを忘れてはいけない。
コラム「労働としての教職の価値」galmin 近畿 20代 学生
— 教働コラムズ (@kyodo_columns) 2019年7月6日
教職のあり方は、労働の大前提が欠如していることに気がつく。労働時間外にどれだけ業務をこなしても自主活動とみなされる法的環境。少なくとも端から見れば、常軌を逸した労働環境に思える。
https://t.co/7FinmZWhra
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こんなふうに労働の前提を壊してしまったのは誰だろうか。文部科学省?給特法を制定した人たち?それとも保護者?私は教員自身だと思う。
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自分の能力を安く提供することは、社会におけるその能力や労働の価値を下げてしまうことになると、気がついていない人が多いように思う。必死の奉仕が、自らの労働の価値を貶めることに繋がってしまっている。
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