~工藤祥子さんの取り組み~
2017年5月25日に発足した「神奈川過労死等を考える家族の会」で代表に就任する工藤祥子さんは、「全国過労死を考える家族の会」で全国の公務災害を担当している。
国の過労死に対する取り組みとしては2014年に国会で「過労死等防止対策推進法」が全会一致で可決された。2016年からは年1回「過労死防止白書」が発行されている。
祥子さんは「過労死等防止対策推進法」によって教員の働き方が守られ、「過労死防止白書」によって詳細な実態調査とともに働き方の改善を国レベルで行うよう指導する事、つまり国が過労死ゼロとなるような法整備を整え、教員の働き方も変わる様に法制度を整えるべき、と訴えている。
この取り組みは、教職員の長時間労働問題に関して、厚労省からも国の法律を変えていこうというアプローチである。
このような活動に取り組む祥子さんには、耐え難く辛い過去がある。
公立中学校の保健体育教諭である夫・義男さんは40歳の若さで過労死した。
ここには巨大な問題点が2つある。
ひとつは責務の過重負担に伴う長時間労働。
もうひとつは公務災害が認められることの難しさ。
祥子さんに伺ったお話のうち、今回はこの2点に絞ってお伝えする。
【問題点1、責務の過重負担に伴う長時間労働】
横浜市の中学校の保健体育教諭であった義男さんは、とても生徒指導能力の高い教員だった。その腕を評価されて、次々にポストを任される。特に忙しくなったのは亡くなる2年前、2学年の学年主任と部活動顧問、生徒指導専任(注1)になってからで、朝7時台に始まる部活動から夜9時すぎの帰宅後も持ち帰り仕事をしていた。
また、市全体で技術力の高い生徒を選抜し指導するトレセンにも携わっていた。トレセンは学校のサッカー部が終わってからの活動で、中体連が各学校にトレーニングスタッフを依頼するのである。
多忙の日々ではあるが、部活が大好きだった義男さんはすべてに熱心に取り組んでいた。この仕事が好きだ、自分の天職だ、とよく話していたという。
翌年、亡くなる一年前は3学年の学年主任、部活動顧問、生徒指導専任、進路指導担当。こうなるとトレセンには手がまわらないので抜けることになる。学校業務については「やれる人がいないから自分がやるしかない。周りの先生も協力的だし、なんとかやっていけた。」と、10年いた学校を振り返ったという。
その翌年、指導能力の高さを買われて生徒指導の難しい地域に赴任する。
そして義男さんは転任してからわずか2ヶ月で命を落とすことになる。
一般的に転任1年目で生徒指導専任になることは滅多にないが、どうしてもお願いするということでやむなく引き受ける。職員会議のほか、度重なる外部会議にも出席しなければならなくなった。しかし前任者からの引継ぎが全くない状態での就任となり、必要な連絡先を調べるために町内会の名簿を調べることから始めねばならなかった。
その負担量から、生徒指導専任を担当する教員には「週当たり授業時数を10単位時間以内に軽減し、生徒指導に専念させている」とのことであるが、実際は10時間以上の授業を担当していた。この違法性は、義男さんが亡くなった後に、祥子さんが過労死であることを申請する際に初めて知ることとなった。おそらく現場で働いていた義男さんも知らなかっただろう、と祥子さんは語る。
生徒指導専任と同時に、2クラスの副担任も兼任した。長時間労働はもとより、のしかかる責務の負担も大きいものだった。「頭が痛い」とよくこぼしていた。
そんな中、修学旅行で3年生を担当することになるが、担当学年も違う、転任したばかりな上に業務も多い、という中での分掌だった。
「やりたくない」
この仕事が好きだ、天職だ。と熱心に取り組んできた義男さんが初めて口にした。
管理職にも相談したが、生徒指導専任が行くのは仕方がないことだ、と説得される。
明け方近くまで生徒の部屋を見回りした2泊3日の修学旅行引率から帰宅すると、義男さんは布団へ倒れこんでしまう。この日を境に頭が痛くて動けなくなった。
それから2日後、重い体を引きずって、当時面倒を見ていた部員たちの試合を応援に行く。会場にいた保護者の話によると、義男さんは木陰に座り込んで部員たちに指示を出していたそうだ。そしてこれが義男さんの、教師としての最後の仕事となった。
約10日後、くも膜下出血で還らぬ人となる。
先生の仕事が大好き。生徒が大好き。部活が大好き。自分の天職だ。
そう義男さんが語った教員の仕事の一部始終である。
注1生徒指導専任とは
文部科学省 公式サイト『生徒指導メールマガジン』 第5号より
中学校への生徒指導専任教諭の配置等:中学校における生徒指導体制を強化するため、昭和48年度から、全市立中学校に生徒指導専任教諭を配置している。注2生徒指導専任教諭に対しては、週当たり授業時数を10単位時間以内に軽減し、生徒指導に専念させている。校内教育相談の推進役、担任や学年への相談支援やケースカンファレンス、地域や関係機関対応など、校内生徒指導における専門性の高いコーディネーターとして位置づけている。
平成25年度実績 横浜市教育委員会 点検・評価報告書 より
礼儀や規律を重んじ、人格や生命を尊重して行動する姿勢を育むため、全校で「『豊かな心の育成』推進 プラン」を作成し、学校の特色に応じた道徳教育を推進しています。また、不登校やいじめ等の様々な問 題へ対応するため、昭和48 年から生徒指導専任教諭を全中学校へ配置し、生徒指導体制を進めています。
学校ネットパトロールに関する取組事例・資料集(教育委員会等向け)第2章 より
生徒指導専任教諭は、学校教育法施行 規則で定義される生徒指導主事と同義ですが、横浜市では生徒指導専任教諭設置要綱により その役割と学校組織の中での位置づけが、より明確に定められています。具体的には、生徒 指導専任教諭は学級担任を持たず、授業時数は10時間以内に定められ、注3区内あるいは市内の 生徒指導専任教諭が一堂に集まり警察などの関係機関と協議を行う機会が定期的に設けられ ています。機動性と専門性、組織的対応力が育成された生徒指導の専門教員と表現すること ができます。
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【問題点2、公務災害が認められることの難しさ】
これほどの重責の中、さぞ長時間労働を強いられていたのだろうと容易に想像できる。が、公務災害を申請するにあたってまず「長時間労働」を立証することが大きなハードルだった。なぜなら学校では勤務時間が管理されておらず、働いていたことを証明するすべがなかったのである。なんとか証拠を集めて災害補償基金に申請したのが120時間/月 程度だが、実際に過労死ラインの80時間を超えて認定された月は、たったひと月しかなかった。現場を知る多くの教員の方々は、そんなわけないじゃないか、と憤りを隠せないだろう。
結果的に、公務員の労災にあたる公務災害が認められたのは、義男さんが亡くなって5年後の2012年であった。
災害補償基金は「証拠がないからカウントはしないが、義男さんがやらなければ学校が回らなかった事実があるから、相当の持ち帰り仕事をしたであろう」ということで過労死と認定したのである。
教働コラムズ 2017.10
公立中学校の保健体育教諭である義男さんは40歳の若さで過労死した。
— 教働コラムズ (@kyodo_columns) 2018年8月1日
ここには巨大な問題点が2つある。
ひとつは責務の過重負担に伴う長時間労働。
もうひとつは公務災害が認められることの難しさ。
教員の過労死を考える https://t.co/h8uq0hwEH0
教員の過労死を考える
— 教働コラムズ (@kyodo_columns) 2017年10月26日
先生の仕事が大好き。生徒が大好き。部活が大好き。自分の天職だ。
そう義男さんが語った教員の仕事の一部始終である。
https://t.co/h8uq0hwEH0
公務災害を申請するにあたってまず「長時間労働」を立証することが大きなハードルだった。なぜなら学校では勤務時間が管理されておらず、働いていたことを証明するすべがなかったのである。
— 教働コラムズ (@kyodo_columns) 2018年8月1日
教員の過労死を考える https://t.co/h8uq0hwEH0
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