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現代の学校に求められる福祉的側面と「教員による部活」の必要性

30代 公立、野球部の監督

 

 

 

高校には進学校もあれば学力の低い高校も工業系の高校も色々ある。その中で自分が勤務している学校は学力が低い子供が集まる普通科高校である。卒業後の進路は就職が半分以上。正直、複雑な家庭事情による金銭的・心理的不安定や発達課題など、多様な福祉的問題を抱える子供が多く、彼らは勉強に殆ど興味がない。そんな彼らが高校を続けるモチベーションの1つが部活である。好きな部活をする為に学校に来て勉強をしている状況である。

 

 

部活を通じて勉強の必要性や、人との関わり方、規範意識、マナーを教えていくことができる。本来なら学校の授業や活動を通じて教えていくべきことや、もっと言えば家庭で教えておかなければいけない事をできずに大きくなってきている子供達が多い。家庭教育ができていないのは、富裕層も貧困層も関係はない。無関心な親、異常に学校へサービスを求める親。親の問題。親は教育する事を放棄し、学校に押し付けている。そんな状況で子供達に勉強面や生活面の指導をしていく為の動機付けには部活は1つの手段である。動機付けとして正しいかどうかは別であるが、勉強面や生活面の指導は必要である。(誤解を避けるために、人として素晴らしい保護者の方々も大勢おられることを付け加えておく。)

 

 

現に部活を通じて進学しても、スポーツを続ける為には勉強が必要だ、と考えて勉強を頑張り始めた子供もいる。中学時代はDVやネグレクトで人を信用できなかった子供が仲間や大人を信用する事ができたり、生徒指導上問題のあった子供が部活を通じて教員の指導に従うようになり、更生したこともある。親が自殺したり、罪を犯した時に、部活が支えで立ち直れた子供もいる。

 

 

現在は様々な問題を抱えた子供がいる。その子供達と関わる時間が多いのは、何を置いても保護者と教員である。家に帰っても保護者が居ない子供からすると、教員と関わっている時間の方が長い。そこに信頼関係がうまれ、子供達は閉ざした心を開いてくれる。カウンセラーや児童相談所の人がたまに来て話すだけでは、子供たちは簡単には心を開かない。毎日、授業や休み時間、行事や部活で接するからこそ、自分の悩みを打ち明けたり素直になれたりする。大袈裟かもしれないが、それで救われた命もある。

 

 

幼い頃に形成された記憶や習慣というのはなかなか変えることができない。本来なら愛情を注いでもらいたい時期に注いでもらえなかった子供たちに対して、我々教員ができることは何だろうか。そう考えると、本来保護者に愛情を示してもらいたかったその気持ちを受け止めて満たすのは、教員の役割になってきてしまっている。家庭教育のしわ寄せだ。部活は、そんな子供たち(福祉的ケアの必要な生徒)に寄り添うための手段である。現にそこで救われる生徒がいるのなら、救わないといけない。外部指導員はスポーツ指導はできても、この福祉的な側面には対応できるだろうか。

 

 

以上のことから「教員による部活」が学校には必要だと考える。

 

 

しかし残念ながら、学校対抗の勝利至上主義の想いが強過ぎて生徒に根性論を押し付けたり、生徒を駒のように扱う顧問がいるので、学校で行われる部活の本来の姿が見えなくなっているのは事実である。